生命は
死にたくないという本能のままに生きている
生きるために求め
奪い
比べ
守ろうとする
その動きは
生命として自然なことなのだと思う
けれど
生きるための生存競争の中にいるかぎり
苦しみはなくならない
満たされてもまた求め
守れてもまた失うことを恐れ
比べては揺れ続ける
人もまた
その流れの中で生きている
ただ
人として生まれたなら
その動きを俯瞰して観ることができるのではないかと思っている
何を求めているのか
なぜ苦しいのか
何を怖れているのか
外側を変える前に
まず内側で起きていることを観る
それが
抜け出すための最初の一歩になるかもしれない
Zero Neutral は
何かを信じてもらうための場所ではありません
答えを与えるための場所でもありません
ここにあるのは
ただ観たこと
感じたこと
考えたことの記録です
自分で観察しなければ
本当に見えてくることはない
だからここでは
結論を押しつけるのではなく
観るための言葉を静かに置いていきます
生きることの本質や
そこに重なっていく感情や執着や思い込みを
少し離れたところから見つめるために
感情の奥を観るようになった日
人は
自分のことを
思っているほどきれいには見えていないのかもしれません。
ふだんは
やさしさや後悔や反省のような
わかりやすい感情を
自分の中心だと思っています。
けれど
何かが大きく壊れたとき
その奥から
もっと冷たいものが出てくることがあります。
悲しんでいるのに
自分を守ろうとしている。
後悔しているのに
どこかで言い訳を探している。
責任を感じているのに
その責任から少しでも逃れようとしている。
その動きを見たとき
人は自分の中にあるものを
簡単には信じられなくなります。
それは
きれいな反省ではありません。
正しく生きようとする決意でもありません。
ただ
自分の中には
見たくないものもあるのだと
知ってしまうことです。
そこから
感情を変えようとすることよりも
感情を観ることが始まりました。
悲しみを美しくしない。
罪悪感を正しさに変えない。
保身をなかったことにしない。
冷たさを別の誰かのせいにしない。
ただ
そのまま観る。
人の中には
やさしさもあります。
弱さもあります。
逃げようとする心もあります。
自分だけは守られたいという
小さくて冷たい動きもあります。
それを消せるとは思いません。
けれど
見ないふりをしないことはできます。
感情を観るというのは
穏やかな場所に座ることではなく
自分の中にあるものを
都合よく整えないことなのかもしれません。
きれいな自分だけを
自分だと思わないこと。
醜さを見たからといって
それだけを自分だと決めつけないこと。
そのあいだに
静かに立っていること。
ゼロニュートラルは
そこから始まっているのかもしれません。
この場所について
この場所は
観たこと
感じたこと
考えたことを
静かに記していくためにあります
もしこの場所に意味を感じてくださった方がいれば
言葉を添えて支えていただけたら幸いです
ここに訪れてくださること自体が
すでにひとつの縁
ただ、いちばん嬉しいのは
必要なときにふと思い出して
またここへ来てもらえること
ここが
自分の内側を観るための
最初の一歩になればと願っております
