生きる目的とは何だろうか。
そう聞かれたとき、私たちは明確に答えることができるだろうか。
幸せになること。
何かを成し遂げること。
誰かの役に立つこと。
人はそれぞれに、生きる意味や目的を探している。
そこに決まった答えはないのだと思う。
けれど、目の前の小さな生命をただ観ていたとき、ふと気づいたことがあった。
生きる目的とは、そもそも探す必要のあるものなのだろうか。
生命はただ生きている
目の前を小さな羽虫が飛んでいる。
そこに何か特別な意味があるわけではない。
羽虫は今日も、ただ生きている。
草も、木も、鳥も、虫も。
この世界に生まれ、それぞれの条件の中で生き、やがて死んでいく。
生きることに意味を求めたり、自分の存在を何かで証明したりする必要はない。
生命はただ生きている。
そして、その生命の中には人間もいる。
自分もまた、無数に存在する生命のひとつに過ぎない。
そう考えたとき、生きることそのものが目的なのではないかと思った。
いや、目的という言葉さえ、必要ないのかもしれない。
生まれたから、今を生きている。
そして、いつか死ぬ。
そこに人間が考えるような意味がなくても、生命は何も困らない。
意味を持たなくても、生命は生命として存在している。
それは、人間も同じなのだと思う。
今日を生きられる。それだけで足りている
羽虫を眺めながら、自分も同じ生命なのだと感じていた。
すると、不思議なほど穏やかな気持ちになった。
何かを手に入れたわけではない。
何かを成し遂げたわけでもない。
抱えている問題が、すべてなくなったわけでもない。
ただ、今日を生きている。
その事実だけで、すでに足りているように感じられた。
もちろん、生きるためには食べることも、休むことも必要になる。
明日のために働き、暮らしを整えることもある。
それらを否定するわけではない。
ただ、生きることに加えて、さらに何かを手に入れなければ満たされないという思いからは、少し離れられる。
ゼロニュートラルでいうゼロとは、今日の事実まで戻ること。
ニュートラルとは、そこから自分の心の動きを良し悪しなく観ること。
今日、自分は生きている。
まず、その事実に戻る。
そして、今の自分の心をただ観てみる。
そこには、静かな穏やかさがあった。
穏やかになろうとしたわけではない。
足りないものを探すことから離れたとき、自然と感じられたものだった。
この心地よさこそ、これまで自分が求めていたものなのかもしれない。
満たされた先にあるもの
自分がすでに足りていると感じられたとき、もうひとつ自然に浮かんできたことがある。
それは、他の生命のことだった。
この世界には、今日を生きるために多くの力を必要としている生命がいる。
自分も、その生命のひとつであることに変わりはない。
けれど、人間として生まれた自分には、他の生命に寄り添うことのできる力がある。
少しの時間。
少しの手間。
少しの心の余裕。
自分に必要なものが足りているのなら、余った分を他の生命のために使えばいい。
それは、何か立派なことをしようという話ではない。
自分を犠牲にしてまで、誰かを助けようということでもない。
まして、誰かに認めてもらうためでもない。
ただ、そうすることが自然に思える。
自分が満たされるために、他の生命に寄り添うのではない。
すでに満たされているから、他の生命にも少し目を向けられる。
その順番なのだと思う。
自分を世界の中心に置く必要がなくなれば、目の前の生命も、自分と同じ世界を生きている存在として観えてくる。
そして、そこに自分のできることがあるのなら、少しだけ力を使う。
それだけのことなのだと思う。
優しい世界を願うこと
世界は願いを知らず、ただ理に従う。
この考えは、今も変わらない。
世界は、人間の幸せのために動いているわけではない。
生命の誕生も死も、喜びも悲しみも、さまざまな原因と条件の中で起きている。
そこに、私たちの願いをかなえるという意図はない。
けれど、それは人間が何も願ってはいけないということではない。
もし、自分が穏やかに生きることで、目の前の生命にも少し穏やかさが広がるのなら。
そして、同じように考える人が少しずつ増えていくのなら。
この世界は、今よりも少し優しくなるのかもしれない。
そんな世界を思い描くことは、決して悪いことではないと思う。
ただし、その世界を実現することを、自分の生きる目的にはしない。
思い描いた世界にならなければ満たされないのでは、また何かを求めるところへ戻ってしまう。
自分にできることをする。
その結果は、世界にゆだねる。
目の前の生命に寄り添うことと、世界が思いどおりになることは別の話なのだから。
いつでも、この原点に戻る
これまで、生きることについていろいろと考えてきた。
何が必要なのか。
何を手放せばいいのか。
どうすれば穏やかに生きられるのか。
その答えを探していたようにも思う。
けれど、今日、目の前の羽虫をただ観ていたとき、そこには探していた答えのようなものがあった。
今日一日を生きることができる。
それだけで、すでに足りている。
そして、余った力で他の生命に少し寄り添う。
それが、とても自然に感じられた。
これから先も、不安になる日や、心が乱れる日はあるのだろう。
穏やかでいられない日もあると思う。
それでも構わない。
穏やかな状態を保ち続けることが目的ではないのだから。
そんなときは、もう一度、今日の事実まで戻ればいい。
自分も、この世界に生きる生命のひとつ。
今日も、ただ生きている。
そこから自分の心を観てみる。
何かを無理に変える必要はない。
今日感じた穏やかさも、特別なものではなかったのだと思う。
ただ生きているという、生命の原点に立ったとき、自然と感じられたものだった。
生きる意味を見つけたから、満たされたのではない。
生きることに、それ以上の意味を求めなくてもよいと感じられたから、穏やかだった。
今日一日だけ、穏やかに生きる。
それができれば、もう十分なのだと思う。
そして、余った分を少しだけ世界へ。
今は、それが自分にとって、最も自然な生き方なのだと感じている。
