願いの本質は、無いものねだり

もっとお金があれば。
もっと時間があれば。
あれが手に入れば。
こうなれたら。

小さな願いも、大きな願いも。

よく見ると、その中心にはいつも
「今はないもの」があります。

もちろん、願うことが悪いわけではありません。

ただ、その仕組みを知っておくだけで、少し見え方が変わります。

人は、今あるものをあまり願わない

すでに持っているものは、願いになりにくいものです。

毎日歩ける人が、

「明日も自分の足で歩けますように」

と強く願いながら一日を過ごすことは、あまりありません。

目が見える人も、普段は「見えること」を願いません。

それはすでにそこにあり、日常になっているから。

反対に、目が見えなくなれば、

「もう一度見たい」

という願いが生まれるかもしれません。

つまり願いは、今あるものよりも、
今ないものへ向かいやすい。

これは特別なことではなく、人のごく自然な働きなのでしょう。

願いが叶えば、そこで終わるのか

もし、目が見えない人に奇跡のようなことが起きて、見えるようになったとします。

その瞬間、その願いは叶います。

けれど、その人の願いそのものが、そこで終わるでしょうか。

おそらく、そうはならないと思います。

見えるようになった世界の中で、また生活が始まる。

行きたい場所ができるかもしれない。
欲しいものができるかもしれない。
誰かと一緒にいたいと思うかもしれない。

ひとつの「ない」が「ある」に変われば、別の「ない」が見えてくる。

願いが叶わないから、願い続けるのではありません。

願いとはそもそも、
まだないものを見つける働きでもある。

そう考えると、願いに終わりがないのは不思議ではありません。

世界には「まだないもの」が無限にある

ひとつ願いが叶っても、世界にある「ないもの」がなくなるわけではありません。

欲しかったものを手に入れても、持っていないものはまだあります。

目標を達成しても、その先には別の目標が見えるでしょう。

ひとつ問題が解決しても、人生から問題そのものが消えるわけではありません。

世界には、自分が持っていないものも、経験していないものも、まだ知らないものも無数にあるのですから。

そのすべてを願いの対象にできるのなら、

願いを叶え続けることで
「いつか完全に満たされた場所へたどり着く」

という考えには、最初から少し無理があるのかもしれません。

誰かの願いは、誰かの日常

自分が切実に欲しいと思っているものを、すでに持っている人がいます。

広い家に住みたい人がいれば、広い家で普通に暮らしている人がいる。

健康を取り戻したい人がいれば、健康についてほとんど考えずに一日を過ごす人がいます。

一人で寂しい人がいれば、一人になる時間を欲しがっている人もいます。

自分にとっては大きな願いも、

誰かにとっては、ただの日常。

そして今、自分が何とも思わず持っているものも、別の誰かにとっては神に祈るほどの願いなのかもしれません。

願いの対象そのものに、絶対的な価値があるわけではない。

その人に「ない」から、願いになる。

そう考えると、願いというものが少し違って見えてきます。

「叶えば幸せ」と「叶わなければ不幸」は別

願いがあると、いつの間にか、

「これが叶えば幸せになれる」

という条件をつけてしまうことがあります。

けれど、願いが叶うことと、穏やかでいられることは、決して同じではありません。

叶った瞬間はうれしくても、それはやがて日常になる。

ずっと欲しかったものも、手に入れてしばらくすると「持っているのが普通」になります。

そしてまた、別のものが気になり始める。

これは欲深いからではなく、そういう働きが人にはあるのでしょう。

だから、

願いを持つことと、
願いが叶うまで今を不足した時間にすることは、

分けて考えてもいいのだと思います。

願いを捨てる必要はない

願わないようにしよう。

何も求めないようにしよう。

そうすると今度は、

「願いを持たない自分になりたい」

という新しい願いが生まれます。

それでは、あまり変わりません。

願いはあっていい。

欲しいものがあってもいいし、叶えたいことがあってもいい。

ただ、

これは今ないものを見て生まれた願いなんだ

と知っている。

それだけでも十分なのかもしれません。

願いに引っ張られているときと、
願っている自分を眺めているときでは、

同じ願いでも少し距離感が違うから。

無いものを見れば、無いものはなくならない

人は、今ないものを願います。

そして世界には、今ないものが無数にあります。

だから、その一つひとつを手に入れることで不足をなくそうとしても、おそらく終わりはありません。

ひとつ叶えば、また次が見える。

それは失敗でも、欲深さでもなく、願いというものの自然な仕組みなのだと思います。

だから願いを消す必要もありません。

ただ、

今、自分は何を「ない」と見ているのか。

その願いが叶ったあと、本当に願いそのものが終わるのか。

少しだけ離れて見てみる。

それだけで、今あるものまで「足りない側」に置かずに済むことがあります。

願いはあってもいい。

でも、願いの先にしか今を置けないわけではありません。

願いの本質は、無いものねだり。

それを知ったうえで願うのと、
願いの中だけで生きるのとでは、

少し違うのかもしれません。

ゼロニュートラル