善くありたいと思う。
できるなら、優しい側でいたいと思う。
けれど日常は、あまりにも普通で、何か特別なことが起こるわけでもない。
その中で残っていくのは、善さを証明することではなく、静かに在ることなのかもしれない。
善くありたいと思うこと
人はときどき、他の生命に対して、選ぶ側に立ってしまうことがある。
与えるか。
奪うか。
見過ごすか。
守るか。
大げさに言えば、生かすことにも、傷つけることにも、少しだけ関われてしまう。
その場に立ってしまうと、人は自分の態度の重さを知る。
だからこそ、できることなら優しい側でいたいと思う。
乱暴なほうへ行きたくない。
無自覚に踏みにじる側にもなりたくない。
それはきっと、立派になりたいということではない。
ただ、自分の中の粗さを増やしたくないということなのだと思う。
強くありたいのではなく、荒くなりたくない。
正しさを掲げたいのではなく、自分の手つきが冷たくなっていくのを見たくない。
善くありたいという思いには、そういう静かな願いも含まれている。
何も起こらない日常
けれど毎日、善くなりたいと考えていても、現実には何も起こらない普通の日が続いていく。
誰かを救うような出来事もなく、大きな決断をする場面もなく、ただ同じような一日が流れていく。
朝が来て、支度をして、働いて、帰って、また眠る。
その繰り返しの中に、劇的な善が差し込むことはあまりない。
そうすると、少しずつ物足りなさが生まれてくる。
このままでいいのかと思う。
もっと善い何かをしなければならないのではないかと感じる。
もっと、はっきりした価値を残さなければならない。
もっと、わかりやすく誰かの役に立たなければならない。
そんなふうに、自分で自分を急かしてしまう。
けれど、その焦りの中には、善さそのものとは別のものも混ざっている。
特別でありたい気持ち。
意味のある一日だったと思いたい気持ち。
何も起こらなかった日を、少し失敗のように感じてしまう気持ち。
善くありたいはずなのに、いつのまにか、目立つ形を求めてしまう。
そのずれが、日常を静かに濁らせていくことがある。
善さを証明しようとすると苦しくなる
善さが苦しくなるのは、それを証明しようとするときなのかもしれない。
自分はちゃんとしている。
自分は優しい。
自分は間違っていない。
そう思いたくなるほど、心はかえって不安定になる。
なぜなら、証明はいつも他人や結果を必要とするからだ。
感謝されなければ、不十分に感じる。
何かを成し遂げなければ、足りなく感じる。
目に見える形にならなければ、何もしていない気がしてくる。
けれど、本当に静かな善さは、あまり目立たない。
誰にも気づかれずに終わる。
評価にもつながらず、記録にも残らない。
その日、少し言葉をやわらかくしたこと。
余計なひと言を飲み込んだこと。
急いで断じる代わりに、少しだけ待てたこと。
気分で乱さずに、一日を終えたこと。
そういうものは、善行として数えられないかもしれない。
けれど実際には、そういう小さな抑制が、日常の空気を静かに支えている。
静けさのほうを見る
でも、何も起こらない一日を、静かに終えられたなら、それもひとつの在り方なのだと思う。
誰かを傷つけず、余計な衝動に流されず、大きく乱れることもなく、ただ今日を終える。
それは目立たないけれど、たしかにやわらかい。
善さは、特別な場面でだけ現れるものではなく、何もない日の中にも、すでに含まれているのかもしれない。
何も起きなかった。
何も成し遂げなかった。
けれど、必要以上に奪わなかった。
誰かにぶつけなかった。
自分の不機嫌を広げなかった。
そういう日がある。
そして、そういう日が静かに積み重なっていく。
それは拍手を受けるようなものではない。
けれど、生活の中でいちばん自然に続いていく善さは、たぶんこの形に近い。
強く光るものではなく、荒れないこと。
何かを動かすより、余計に乱さないこと。
静けさとは、そのくらい地味なものなのだと思う。
たんたんとしていること
善くなろうとしすぎると、日常の静けさが足りなく見えてくる。
もっと何かが必要だと思い、もっと意味が必要だと思い、もっと証明しなければならない気がしてくる。
そして、ただ過ぎていく日々に、足りなさばかりを見つけるようになる。
けれど、静けさのほうを大切にすると、少し様子が変わってくる。
生活音が、ただ生活音として聞こえる。
何も特別ではない時間が、ただ淡々と流れていく。
そのことに、不足を感じなくなる。
部屋の音。
遠くの車の気配。
食器の触れる音。
いつもの時間に眠くなること。
それらは何も語らない。
何の答えもくれない。
けれど、こちらが何かになろうとしなければ、そのままで足りていることがわかってくる。
感動ではない。
高揚でもない。
深い納得と呼ぶほどでもない。
ただ、悪くない。
そのくらいの温度が、いちばん自然なのかもしれない。
たんたんとしていることは、空っぽなのではない。
むしろ、余計な期待や演出が抜けたあとの、無理のない状態なのだと思う。
静かに終える
たぶん静けさは、何かを強く目指した先にあるのではなく、力みがほどけたところにある。
善くなろうとしすぎなくていい。
特別な一日を求めなくていい。
何かになったと確認しなくてもいい。
ただ、今日を少し乱さずに終えられたなら、それで十分なのかもしれない。
その十分さは、派手ではない。
けれど、無理がなく、長く続く。
善くありたいと思う気持ちは、そのままでいい。
ただ、それを重たく持ちすぎなくていい。
証明しなくていい。
急がなくていい。
静かに過ぎた一日は、何もなかった一日ではない。
それだけ荒れなかった一日であり、余計に濁さなかった一日でもある。
そうして、一日ずつ軽く終えていく。
善くなろうとしないほうへ。
静けさに戻るほうへ。
ゼロニュートラル
