生きるのがつらい。
生活が苦しい。
お金が足りない。
何をしても、どこか重い。
そう感じるとき、それはどこか異常なことのように見えやすいものです。
周りはもっと軽やかに生きているように見えて、なぜこんなに苦しいのかと考えてしまうこともあります。
けれど、生命として見れば、不足しやすく、壊れやすく、維持に負荷がかかることのほうが、むしろ自然なのかもしれません。
生きることが最初から軽いものではないとしたら、つらさの見え方も少し変わってきます。
ここで見たいのは、苦しさを前向きに言い換えることではありません。
苦しみをなかったことにすることでもありません。
生命としてもともとある重さと、その上にあとから重ねているものを、静かに見分けていくことです。
生きることに負荷があるのは、特別なことではない
生きるためには、食べなければならない。
休まなければならない。
守らなければならない。
失わないように動かなければならない。
それだけでも、生命には最初から負荷がかかります。
何もしなくても満ちていて、不安もなく、不足もなく続いていく生命が、この世にどれほどあるでしょうか。
空腹になる。
乾く。
疲れる。
老いる。
傷つく。
奪われる。
失う。
こうしたことは、全ての生命にとってどれも特別な例外なく、生きることの中に最初から含まれています。
だから、苦しいことがあるのはおかしい、という見方よりも、苦しさがあることのほうが、生命としては自然なのかもしれません。
つらさがあること自体を、まず異常として裁かない。
そこから、見え方は少し変わり始めます。
足りなくなりやすいことが、生命の基準なのかもしれない
満ちていることを基準にすると、少し欠けただけで、すぐに異常に見えてきます。
けれど、不足しやすいことが最初から生命の側にあるのだとしたら、景色は違って見えます。
お金が足りない。
時間が足りない。
体力が足りない。
安心が足りない。
そうした感覚は、現代だけの特別なものではなく、生命が維持を続けるかぎり、何度でも現れやすいものなのだと思います。
満ちていることが普通なのではなく、足りなくなりやすいことのほうが、むしろ基準に近い。
そう考えると、苦しさを完全に消し去ることばかりが目的ではなくなります。
まず、不足しやすく、揺れやすく、保ちにくいものとして生命がある。
そこを見誤らないことのほうが、静かに生きるためには大きいのだと思います。
つらさよりも、その上に重ねるものが重い
ただ、ここで見たいのは、生命としての苦しさだけではありません。
人には、その上にさらに何かを重ねてしまう動きがあります。
比べる。
遅れていると感じる。
こうあるべきだと思う。
まだ足りないと思う。
もっと楽しみたい。
刺激を求める。
このままではいけないと思う。
すると、不足そのものよりも、不足に対して重ねた意味のほうが、苦しさを大きくしていきます。
生活が苦しいことと、生活が苦しい状態は駄目だと思うことは、少し違います。
お金がないことと、お金がない状態は恥ずかしいと思うことも、同じではありません。
生きることの負荷は、たしかにあります。
けれど、その負荷の上に、比較や思い込みや理想像を重ねると、苦しみはさらに濃くなります。
だから、苦しさを否定するより先に、何が最初からあり、何をあとから重ねているのかを見ていくことが大切。
そこが見えないままだと、もともと重かったものを、さらに重く持ち続けることになります。
生命のニュートラルを観ると、少し背負い方が変わる
ゼロニュートラルは、生きることを明るく言い換えるための場所ではありません。
苦しさをなかったことにする場所でもありません。
生命として最初からある重さと、その上に重ねてしまったものを、少しずつ見分けていく場所です。
生きるのがつらいことは、特別な失敗ではない。
むしろ、そこが起点なのかもしれません。
生命のニュートラルが、楽で軽い地点だとは限りません。
不足しやすく、揺れやすく、維持に力がいる。
そのくらいの場所を、まず生命の基準として見てみる。
そうすると、つらさそのものがすぐに消えるわけではなくても、余計に背負っていたものには気づきやすくなります。
比べなくていいものまで比べていたこと。
守らなくていいものまで守ろうとしていたこと。
足りないという感覚の上に、さらに理想を重ねていたこと。
そうしたものが少し見えてくると、ようやく下ろせるものが出てきます。
ゼロニュートラルは、そのための場所でありたいと思っています。
生きることの重さを否定せず、その上に重ねすぎたものを静かに見ていく。
その視点から、少しずつ軽くなっていく余地が生まれるのだと思います。
そうして、一日ずつ軽く終えていく。
重ねすぎたものを少しずつ下ろしながら、
静けさに戻るほうへ。
ゼロニュートラル
