もしも未来がわかったら、幸せになれるのでしょうか。
失敗を避けて、欲しいものを選び取り、思いどおりに生きられる。
そう考えると、未来が見えることは、とても大きな力のように思えます。
けれど、その先にある終わりまで見えてしまったとしたら、手に入れることの意味は今と同じままでいられるのでしょうか。
今回は、未来がわかることと幸せの関係、そして終わりの前で本当に残るものについて、静かに考えてみます。
未来がわかれば幸せになれるのでしょうか
もしも未来が予知できたら、幸せになれると思うでしょうか。
先に起こることがわかっていて、失敗を避けられて、望むものを選び取れる。
地位も、名誉も、財産も、思いのままになるかもしれません。
そう考えると、未来が見えることは、とても魅力的です。
不安も減り、迷いも減り、人生はもっと楽になるようにも見えます。
けれど、未来が見えるということは、都合のいい未来だけを知ることではありません。
どれだけ望んだものを手に入れても、どれだけ思いどおりに生きても、最後には手放すしかない時が来る。
そのことまで見えてしまうということです。
そう考えると、未来が見えることで得られる安心は、思っているほど大きくないのかもしれません。
むしろ、先に手に入れることばかり考えていたものが、少し静かになっていくこともあるはずです。
確実に予知できる未来
現実には、未来を見ることは誰にも叶いません。
けれど、確実に予知できることが、ひとつだけあります。
それは、すべての生命はいずれ必ず死ぬということです。
あまりにも当たり前で、予知と呼ぶのも大げさに思えるかもしれません。
そんなことは誰でも知っている、と思うかもしれません。
けれど、その当たり前の未来を、日々実感しながら生きている人は、どれほどいるのでしょうか。
多くの時間は、終わらない前提のまま流れていきます。
まだ先があると思い、まだ失わないと思い、まだ間に合うと思いながら、目の前のことを積み上げていきます。
その感覚が悪いわけではありません。
ただ、終わりがあるということを本当に感じたとき、これまで重く見えていたものが、少し軽くなることがあります。
急いで手に入れなくてもいいもの。
守りすぎなくてもいいもの。
競わなくてもいいもの。
そうしたものが、少しずつ見えてくるのだと思います。
死という未来の前で
未来が見えるということは、死ぬことがゴールだと日々実感しながら生きることでもあります。
死という確実な未来に向かって、どんなに人生を思いどおりに進めたとしても、それをそのまま幸せだと言い切れるでしょうか。
必ず迎える終わりの前では、何を手に入れても、最後にはすべてを失うことになります。
そう考えると、いま強く求めているものの多くが、少し違って見えてきます。
もし一か月後に死ぬとわかっていたら、地位はどれほど大切に見えるでしょうか。
財産は、どれほど安心を与えるでしょうか。
名誉は、そのとき何を支えてくれるのでしょうか。
もちろん、一年後に死ぬのか、三十年後に死ぬのかで、見える景色は変わると思います。
けれど、長いか短いかの違いはあっても、終わりがあるということ自体は変わりません。
そうであるなら、未来が見えることで得られる安心は、思っているほど大きくないのかもしれません。
むしろ、最後に失うことがわかっているからこそ、求めることそのものが静かになっていくこともあるはずです。
死という未来の前では、何を持っているかより、どんな心でそこにいるかのほうが、よほど重要だと思います。
増やしてきたものよりも、何を下ろしていけるのか。
そこに、本当の意味での軽さが現れてくるのかもしれません。
終わりの前でも残るものこそ、本当に大切なもの
幸せとは、何かを多く持つことなのでしょうか。
思いどおりに生きることなのでしょうか。
未来を先回りして、失敗を避け続けることなのでしょうか。
そうではなく、終わりがあることを知ったうえで、それでも穏やかでいられることのほうが、本当の幸せに近いのかもしれません。
死ぬその瞬間まで、心が大きく荒れず、握りしめすぎず、静かでいられること。
何かを増やし続けることではなく、重ねすぎたものを少しずつ下ろしていくこと。
そのほうが、最後に近づいたときにも、無理が少ないように思えます。
余命一か月だとしたら、何を望むでしょうか。
何を手に入れたいでしょうか。
何を残したいでしょうか。
その問いの前では、多くのものが静かに並び替わります。
そして、終わりの前でもなお残るものこそが、本当に大切にしたかったものなのかもしれません。
未来は見えません。
けれど、終わりがあることだけは、もうわかっています。
そうして、一日ずつ軽く終えていく。
重ねすぎたものを少しずつ下ろしながら、
静けさに戻るほうへ。
ゼロニュートラル
