考え続けてきた。
どうすれば、生きることは少し楽になるのか。
欲をなくせばいいのか。
執着を手放せばいいのか。
何も求めず、静かに暮らせばいいのか。
いろいろ考えてきたけれど、今はもっと単純なところに戻っている。
今日一日を生きる。
まずは、それだけでいいのだと思う。
そして、今日を生きるのに必要なものがすでにあるなら、それを一度確かめる。
そこから先に出てくる欲や不安は、なくそうとしない。
ただ観る。
もし少し余裕があるなら、その余裕を周りの生命に少し使う。
今のところ、これが自分にとって一番無理のない生き方になっている。
世界は願を知らず、ただ理に従う
ずっと中心にあるのは、この考えだった。
世界は願を知らず、ただ理に従う。
晴れてほしいと願っても、雨が降ることはある。
長く生きたいと思っても、いつまで生きられるかはわからない。
努力したからといって、思った結果になるとは限らない。
人に優しくしたから、その人が同じように返してくれるとも限らない。
願うことが悪いわけではない。
願いは自然に生まれる。
ただ、願いと現実は別のものだと知っておく。
自分にできることはある。
考えること。
選ぶこと。
行動すること。
けれど、その先で何が起きるかには、自分以外の無数のものが関わっている。
そこまで握ろうとすると、生きることは重くなる。
世界を自分の願いに合わせるのではなく、起きていることをそのまま見る。
そこが、ゼロニュートラルの始まりなのだと思う。
ゼロは、今日の事実まで戻ること
人は、まだ起きていないことまで考える。
一か月後。
一年後。
老後。
そこに必要なお金や健康や安心まで、今日の自分に求めようとする。
もちろん、未来のために準備することはできる。
貯金もする。
仕事もする。
健康にも気をつける。
けれど、それとは別に、一度だけ今日まで戻ってみる。
今日食べるものはあるか。
今日帰る場所はあるか。
今夜眠る場所はあるか。
今日を生きるためのお金はあるか。
身近にいる人や生命とのつながりはあるか。
そこまで確認すると、思っていたより多くのものが、すでにあることに気づく。
何千万円持っていても、今日一日で使えるものには限りがある。
大きな家を持っていても、眠る身体はひとつしかない。
未来のすべてを今日確保することはできない。
だからまず、今日の事実まで戻る。
ゼロとは、何も持たないことではない。
余計に膨らんだ不足感をいったん外して、今あるものを見ることなのだと思う。
ニュートラルは、欲をなくすことではない
今日を生きるものが足りていると分かっても、欲はなくならない。
もっとお金が欲しい。
もっと自由な時間が欲しい。
美味しいものを食べたい。
良いものが欲しい。
認められたい。
それでいいと思う。
欲を持たない人間になろうとすると、今度は「欲を持ってはいけない」という別のものを握ることになる。
だから変えようとしない。
ただ、
いま、もっと欲しいと思っている。
と観る。
不安なら、
いま、不安なんだな。
と観る。
腹が立っているなら、そのこともそのまま見る。
良いとも悪いとも決めなくていい。
欲しいものが手に入れば楽しめばいい。
手に入らなければ、それが今日を生きるために必要だったのかをもう一度見ることもできる。
ニュートラルとは、心を無にすることではなく、心の動きを良し悪しなく観ること。
今は、そう考えている。
願いは一つでいい
いろいろな願いを持ってきた。
もっと稼ぎたい。
もっと自由になりたい。
安心して暮らしたい。
長く生きたい。
それらを一つずつ叶えていけば幸せになると思っていたところもある。
けれど、願いは一つ叶うと、また次が現れる。
だったら、願いそのものをもっと小さくしてもいいのかもしれない。
今、自分が一つだけ選ぶなら、
今日一日だけ、穏やかに生きる。
それでいい。
明日も穏やかでいられる保証はいらない。
一か月後の自分まで安心させようとしなくてもいい。
明日になったら、また明日の一日を生きればいい。
そもそも、その日を迎えることさえ決まっているわけではない。
生命が最初にしていることは、たぶんもっと単純だ。
生きる。
その上に、人間はいろいろなものを重ねている。
だから、ときどき一番下まで戻る。
今日を生きる。
それだけなら、思っていたより多くのものが、もう足りている。
足りていると、少し余裕が生まれる
足りないと思っているときは、自分のことでいっぱいになる。
失いたくない。
取られたくない。
損をしたくない。
他の人より少なくなりたくない。
その状態で周りを見るのは難しい。
けれど、
今日はもう足りている。
そう思えると、ほんの少し余裕ができる。
時間かもしれない。
気持ちかもしれない。
力かもしれない。
お金かもしれない。
その余った分を、少しだけ周りに使うことができる。
人間だけではない。
犬でも猫でもいい。
鳥でも、魚でも、虫でも、植物でもいい。
同じ世界の中で生きているものに、できる範囲で少し寄り添う。
それは、自分を犠牲にすることではない。
自分が足りなくなるまで差し出す必要もない。
足りている分から、少しだけ。
そのくらいでいい。
見返りはいらない
寄り添うことにも、理由をつけすぎないようにしたい。
徳を積みたいわけではない。
いつか自分に良いことが返ってきてほしいわけでもない。
感謝してほしいわけでもない。
自分を善い人間だと思いたいわけでもない。
ただ、そのほうが自分も穏やかに生きられるから、そうする。
手を貸して、何も返ってこなくてもいい。
相手が覚えていなくてもいい。
ありがとうと言われなくてもいい。
そこで終わる。
見返りのためではなく、穏やかに生きるために、少し寄り添う。
それだけなら、善意まで重くならない。
世界を良くしようと背負う必要もない。
目の前に少し困っている生命がいて、自分に少し余裕がある。
なら、できることを少しする。
それで十分だと思う。
穏やかさは、自分の中だけで終わらない
自分が少し穏やかになる。
すると、誰かに強く当たることが少し減る。
奪おうとする力が少し弱くなる。
比較することも少し減る。
余裕があれば、周りの生命に少し寄り添える。
その相手も、ほんの少し楽になるかもしれない。
それ以上の結果はわからない。
世界は願を知らないのだから、思った通りに広がる保証もない。
それでも、自分が穏やかにいることが、周囲を必要以上に荒らさないことにはつながる。
もし同じように生きる人が少しずつ増えたら。
世界を変えるほどではなくても、その人たちの周りでは、生命が少しだけ穏やかに生きられるかもしれない。
そのくらいのことなら、静かに思っていてもいい気がする。
今は、こう生きればいいと思っている
答えを探していた。
どうすれば幸せになれるのか。
どうすれば苦しまなくなるのか。
けれど今は、幸せになろうとすること自体を少し下ろしている。
今日を生きるものがあることを確かめる。
足りていれば、そこで一度ゼロに戻る。
そのあとに出てくる欲も、不安も、怒りも、ただ観る。
できることを選び、結果まで握らない。
そして少し余裕があるなら、周りの生命に少し寄り添う。
明日については、明日また考える。
ゼロ=今日の事実まで戻ること。
ニュートラル=そこから、心の動きを良し悪しなく観ること。
世界は願を知らず、ただ理に従う。
その世界の中で、自分もひとつの生命として今日を生きる。
今のところ、
それが、生きることを少しだけ楽にする答えなのだと思っている。
